冬の足音が近づき、寒くなってきた。還暦を過ぎた古田道治にとって、早朝の起床は苦ではなかったが寒さは身に応える。
時刻は朝7時をまわったところ、職場にはすでに数人の同僚たちがいる。
「車掌101行路古田、出勤致しました。心身状態良好、異常なし。敬礼」
出勤点呼を済ませ、行路表を受け取る。
「ああ、道さん!今日はお世話になります。」
後輩の渋谷が挨拶に来た。
今日の古田は日勤行路で、所属する伊井車掌所を起点に富井地区の区間列車に数本乗った後長野田から快速で修善寺へ行き、夕方の特急に改札担当として乗務し伊井まで帰ってくるのだが、渋谷はその特急の運転扱い担当車掌だ。
「今日も事故なく頼むよ。特別なことはない、いつも通りだ。」
「ええ、分かっています。」
伊豆半島も紅葉のピークが過ぎ、平日の夕方は行楽客より通勤客が目立つ。
3両編成の特急は長野田方の1・2号車が自由席で、最後部3号車が指定席だ。
始発駅の三島は17時03分の発車なので帰宅利用にはやや早く、修善寺で駿豆線の乗務員から引き継いだ時点で、自由席は5割程度、指定席は2~3割程度の乗車率といったところだ。
車内状況・車両状態に変わりはなく、定刻の18時05分に伊井に到着し、古田は後部運転台から渋谷に続いてホームへ降りた。
普段と何も変わらない乗務を終えたはずだったが、そこには家族と大勢の同僚たちの姿があった。
「道さん、46年間無事故の鉄道員人生、お疲れ様でした。」
渋谷が花束を渡す。
「おいおい、いつも通り頼むと言ったじゃないか…。」
「ええ、分かっていますって。何も特別なことはありません。」
そう言うと渋谷は乗務を終えた列車に戻り、車内点検を行いながら反対側の運転台へと向かっていった。
彼はこの後、折り返し伊井駅18時18分発の特急で修善寺まで戻るのだ。
古田が祝福を受けている間に、特急の発車を知らせる笛が鳴る。
ドアを閉め、車側灯の滅灯を確認した渋谷は、一度も古田を見ることはなく前方の列車監視を行い暗闇の向こうへ去って行った。
「いつも通り、格好の良い列車監視じゃねえか」
これからは彼らが、鉄道の安全を守り続けてくれるだろう。
過ぎ去る後部標識を見つめる古田の顔は、少し嬉しそうだった。 |