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ODEN-KAN

架空鉄道<三国グループ>

「駿遠鉄道」「富井鉄道」のある世界。

嵐の記憶
林造船所に勤務する山田清太郎は、富井市内にある子会社・ハヤシ重工へと出張に向かっていた。普段は社用車での移動ばかりだが、今回は夏休み期間中で行楽地である伊豆は渋滞が予想されるため、珍しく電車利用である。
新幹線を三島で降り、JRの構内を通り抜け南口へ向かう。
JRと伊豆箱根鉄道の乗換改札を通り、目の前の立ち食い蕎麦屋で早めの昼食を摂ることにした。
乗換時間は30分も無いし、ここなら手っ取り早く済ませられる。

入社後すぐに、当時は本社機能も備えていた尼崎工場に配属され、その後現場を離れバブル期に本社の移転とともに東京に移った山田にとっては、1993年に分社した富井の野畑工場は、馴染みのない場所だ。

蕎麦を食べ終わって時計を見ると、もう10時をまわっている。
乗車する10時10分発の特急「まぶゆ」号は、すでに7番線に入線していた。
山田は事前に会社が用意した指定券の番号を確め、乗り込んだ。

今日使う資料に必要なデータが昨日になってようやく出揃い、大慌てで資料をまとめて新幹線の車内で何とか最終チェックを済ませたところだ。
腹もふくれたせいか、襲ってきた睡魔には勝てなかった。

ちょうど30分程眠ってしまったようだ。ふと目が覚めると、列車は山あいの駅に停車をしていた。
窓の外に目をやると、駅名票には「吉奈温泉」の文字、そして駅前には小さな温泉街が見える。
訪れたことがないはずの温泉街の旅館の名前を数軒目にしたとき、何故か懐かしさが込み上げてきた。

吉奈温泉…ああ…あの時の…
うっすらと記憶が甦ってくる。
あれはもう40年以上前の事か。

私が大学を出て林造船所に入社して駿年後、本社が尼崎にあった頃の話である。
豊橋の取引先へ寄り、まだ分社化前だった野畑工場への出張へ向かう途中のことだった。
当時は富井鉄道の山越え区間がまだ旧線で、浜松からの急行「駿豆」を終点の月ヶ瀬温泉で降り、長野田港行きの快速「とみい」に乗り継ぐという行程だった。
その年は6月の終わり頃から雨の日が多かったが、この日は台風の影響もあり特に強い雨が降っていた。いつ列車が止まってもおかしくないような状況で、「駿豆」も定刻より大幅に遅れており、修善寺で運転打ち切りのためここで快速「とみい」へ乗り換えとなった。
なんとか富井への最後の列車に乗車でき安心したのも束の間、ついに山越えを前にした吉奈駅で運転見合わせとなったのである。
雨風とも衰えぬまま動かぬ列車で時間だけが過ぎ夜を迎えたが、どうすることもできない。
やがて気動車の燃料を節約するため、室内灯が消され、車内は暗闇に包まれた。

それからどれくらい経っただろうか。
相変わらず暴風雨が続いていたが、そんな中、車掌氏と駅員氏が何かを抱えながら巡回してきた。
数百メートル離れた温泉宿の方々が、悪天候にも関わらずおにぎりとお茶を差し入れてくれたのだ。
列車は翌朝になってようやく運転を再開したのだが、あの差し入れが無ければどれだけ不安な夜だったことか。
温泉宿の名前を目にしたとき、そんな遠い記憶が甦ってきた。

あの時必死に超えた峠の鉄路も今はトンネルで一直線に抜けるルートへ切り替えられていたが、それと同時に吉奈駅も温泉街の近くへ移転し、今は「吉奈温泉駅」を名乗っているという。
来年退職したら、またここへ来よう。
数十年越しのお礼を伝えるために…。