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ODEN-KAN

架空鉄道<富井鉄道>

沿革。

1898(明治31)年5月20日、三島町(現・三島田町)〜南条(現・伊豆長岡)間に豆相鉄道(のちの駿豆鉄道→現・伊豆箱根鉄道駿豆線)が開通した。
さらに同年6月15日には東海道線の三島停車場(現・下土狩駅)に接続し、翌年には南条〜大仁間が延長開業した。
これにより伊豆半島各地で鉄道敷設計画が持ち上がったが、それらは実現することなく立ち消えていった。
1921(大正10)年7月に駿豆鉄道が大仁〜修善寺間の敷設免許を受けるとその熱は再燃したが、1923(大正12)年の震災により駿豆鉄道は多大な被害を受け、修善寺から先への延伸には暗雲が立ち込めた。

1922(大正11)年4月11日公布の「改正鉄道敷設法」別表第61号において熱海〜下田〜松崎〜大仁の伊豆環状線125.5kmの敷設計画が明示されたのを受け、中伊豆・西伊豆の有志により「鉄道期成同盟」が結成されたが、国の計画では東伊豆が優先された点及び駿豆鉄道の状況から、地元資本による別会社での鉄道開通が計画され、1924(大正13)年1月18日西伊豆鉄道株式会社が設立された。
駿豆鉄道の修善寺延伸により、計画を伊東〜修善寺〜出口〜土肥〜松崎・富井とし、まずは修善寺〜土肥間の免許を申請、翌年免許が下付され、第一期区間として修善寺〜出口間の開通を目指した。
駿豆鉄道の修善寺延伸以前から走っていた大仁〜修善寺〜出口間の乗合馬車は非常に好評であったため、西伊豆鉄道の開通は多くの地元住民にも期待された。
そして1926(大正15)年、ようやく狩野川の西岸沿いに修善寺〜出口間が開通、翌年には吉奈まで開通させた。
開業記念式典には多くの人が押し掛け、その後もしばらくは弁当片手に来る見物人が絶えなかったという。
伊東〜修善寺間については、国鉄が熱海〜伊東間を開業させた後に接続させる予定であったが、その国鉄線の開業が決まらず、計画は見送られていた。
会社内部、特に西伊豆からの出資者からは、難工事が予想される吉奈〜土肥間の第四期区間の工事を優先させるべきとの意見が多く、土肥延伸を目指して工事は進められた。
この区間は標高753mの棚場山を越えなければならず、吉奈川に沿って棚場山の南側へ登り、土肥の山川へ抜けるルートがとられることとなったが、それでも4箇所でのスイッチバックや全長1450mの吉奈峠トンネルを含めた3つのトンネル等難所であることに代わりはなく、1934(昭和9年)4月1日ついに吉奈〜土肥間が開通したものの、工事費回収のための高額な運賃の影響もあって需要は伸びず、また有力な出資者であった伊豆水力電気が戦時下における電力の国家統制のために1942(昭和17)年に解散、西伊豆鉄道のその後の工事は滞ってしまう。

一方富井地区では、富士郡今泉村(現在の富士市)に本社を置く東駿製紙株式会社が、奥入の同社富井工場から木日港への専用線を敷設していたが、当時の木日港は深度が浅く大型船の入港ができなかったため、長野田島の長野田港での貨物扱い及び専用線から分岐して長野田港までの鉄道線の建設を計画していた。
この路線は奥入から井中へ向かい、そこで長野田島へ渡って石松地区を経由し長野田港へ向かうもので、当時まだ採掘を行っていた馬棲金山からの貨物輸送も目的の一つだった。
東駿製紙はこの区間の鉄道免許を申請し、1924(大正13)年12月に免許が下布され、1925(大正14)年3月24日に富井鉄道株式会社(初代)を設立した上で鉄道敷設権を譲渡、着工した。
沿線住民にとっても、当時本土でも珍しかった鉄道への期待は大きく、工事は順調に進むかと思われた。
ところが石松地区の一部で未知の乗り物である鉄道が通るのは危険との理由から反対運動が起き、用地の取得ができなかった。
そこで石松地区を通らず馬棲川沿いに馬棲金山へ向かうルートに計画を変更、工事を進める間、まず同年11月1日に奥入〜井中間を旅客線として開通させ、翌1926(大正15)12月18日に馬棲〜長野田港(現在の長野田BC付近)間が開通した。
1927(昭和2)年9月21日には残る井中〜馬棲が開通、当初計画の奥入〜長野田港間が全通した。
その後富井鉄道では地元からの要望もあり、富井島西の漁村松田から奥入を経由し東の玄関口伊井までの路線を計画し、1929(昭和4)年9月15日奥入〜伊井間の奥入街道上に軌道線を開通、さらに1932(昭和7)年7月1日には松田港〜仲郷間を開通させた。
なお、伊井開通時に土肥までの航路を運航し、本土への連絡を行った。
1943(昭和18)年11月1日、井中汽船株式会社・井中温泉自動車株式会社・富井乗合自動車株式会社を合併、富井鉄道汽船株式会社に社名変更し遊覧船事業と乗合自動車事業に進出した。

終戦後の1947(昭和22)年5月25日、本土への鉄道線接続を目標とする富井鉄道汽船は、修善寺〜土肥間の鉄道路線を運行していた西伊豆鉄道を合併、再び富井鉄道に社名変更した。
その後長らくの間課題であった土肥〜伊井間の架橋計画が進み、先行して1950(昭和25)年に伊井〜松田港間の富井線が併用軌道から新線に切り替えられ、1959(昭和34)年12月15日に念願の土肥〜伊井間が開通した。
なお土肥〜伊井間の土肥大橋は建設費軽減のために県道(現・国道149号本道)との鉄道道路併用橋として建設された。

鉄道線では、唯一の他社線接続駅である修善寺から駿豆鉄道を経由して、国鉄(現・JR)や東駿鉄道(現・駿遠鉄道)への直通列車が早くから設定されていた。
西伊豆鉄道時代の1933(昭和8)年には東京方面から月ヶ瀬温泉まで、週末に直通列車の運転が開始された。
これは戦時中に中止されてしまうが、終戦後の1949(昭和24)年4月、東京から毎週土曜日運行(下りのみ)の「湘南準急」が月ヶ瀬温泉まで乗り入れ、直通運転が再開された。(10月には日曜に上り列車を設定し「いでゆ」と命名)
翌1950(昭和25)年10に東京〜伊東・修善寺・月ヶ瀬温泉間に、80系電車を使用した週末準急「あまぎ」を設定。三島〜月ヶ瀬温泉間は架線電圧600Vのため、80系は性能を落として運行していた。(1959(昭和34)年に駿豆線の、1960(昭和35)年に修善寺〜伊井間の架線電圧が1500Vに昇圧された。)
1951(昭和26)年に準急「いでゆ」も80系電車での運行となり、臨時ながら毎日運行になった。
1953(昭和28)年3月、準急「あまぎ」は「伊豆」に改称され、こちらも臨時ながら毎日運行となり、1954(昭和29)年10月には「いでゆ」「伊豆」ともに定期列車に格上げされた。
その後は使用される車両も153系電車となり、1964(昭和39)年11月に「伊豆」が、1966(昭和41)年3月に「いでゆ」がそれぞれ急行に昇格となった。
そして1965(昭和40)年10月から、それまで名古屋〜修善寺間の運転だった準急「するが」が大垣〜月ヶ瀬温泉間で運転されることとなり、静岡県中西部や名古屋方面からのアクセスが向上した。(翌年3月に急行に昇格し「中伊豆」に改称。)
しかし1968(昭和43)年10月に行われた国鉄の大規模ダイヤ改正で急行「いでゆ」が廃止、準急「するが」から昇格した急行「中伊豆」は「しゅぜんじ」に改称の上運転区間を静岡〜修善寺間に縮小し、駿豆線経由で国鉄から直通する優等列車は、東京からの急行「伊豆」のみとなってしまった。
そこで富井鉄道では翌1969(昭和44)年4月の東海道新幹線三島駅開業に合わせ、三島〜長野田港間直通の気動車快速「とみい」の運転を開始した。
小田急にて御殿場線直通用として活躍していたキハ5000形気動車を譲り受け使用したが、シートピッチの狭さ等から観光アクセス列車としての評判は悪かった。
そのため富士急行にて河口湖-新宿間の急行「かわぐち」として1962(昭和37)年より運行していたキハ58系気動車を1975(昭和50)年の「かわぐち」電車化に伴い譲り受け、翌1976(昭和51)年3月のダイヤ改正にて「とみい」に投入、同時に快速から急行に昇格させた。
1973(昭和48)年4月、急行「修善寺」が「駿豆」に改称の上、運転区間を浜松〜月ヶ瀬温泉間に拡大、1981(昭和56)年10月には急行「伊豆」が新型車両185系を使用した特急「踊り子」となり、首都圏から中伊豆への鉄道アクセスは再び向上した。
1987(昭和62)年に全線の電化及び長野田新線が開業すると、初の自社発注特急型車両100系を投入し、三島〜長野田間の特急「まぶゆ」として運転を開始した。
1990(平成2)年には、悲願であった棚場山トンネルの開通により月ヶ瀬温泉〜土肥間が新線に切り替えられ、この区間に3箇所あったスイッチバックが解消され、所要時間は大きく短縮された。

富井鉄道では沿線の観光開発にも力を入れ、1955(昭和30)年に富井鳥類研究センター(現・とみいバードランド)、1964(昭和39)年に伊豆吉崎山索道線(通称・吉崎山ロープウェイ)、1983(昭和58)年に富井浜水族館をそれぞれ開業した。
1974(昭和49)年に設立した株式会社西伊豆ホテルリゾート開発(現・株式会社とみてつホテル)は、全国各地でホテルの運営や不動産事業を展開し、富井鉄道グループの大きな柱となっている。

一方、主力事業の一つであった海運事業は徐々に整理され、1971(昭和46)年に貨物船による海運事業を東駿海運に譲渡(1982年に貨客船退役により完全撤退)、旅客海運部門も1985(昭和60)年に新富士フェリーに分社化している。

今後もグループ各社一丸となっての発展が期待される。
【年表】
1924(大正13)年1月 【西】西伊豆鉄道株式会社設立
1925(大正14)年3月 【富】(初代)富井鉄道株式会社設立
1925(大正14)年11月 【富】奥入(旧)〜井中開通
1926(大正15)年10月 【西】修善寺〜出口開通
1926(大正15)年12月 【富】馬棲〜長野田港(現在廃止)開通
1927(昭和2)年3月 【西】出口〜月ヶ瀬温泉開通
1927(昭和2)年6月 【富】清水〜長野田航路就航
1927(昭和2)年9月 【富】井中〜馬棲開通
1929(昭和4)年4月 【西】月ヶ瀬温泉〜吉奈(現在廃止)開通
1929(昭和4)年9月 【富】伊井(旧)〜奥入(旧)開通

【富】土肥〜伊井航路就航
1929(昭和4)年12月 【西】修善寺・天城地区にて乗合自動車・貸切自動車の営業を開始
1932(昭和7)年7月 【富】仲郷〜松田港開通、奥入駅を井中線から富井線に移設
1933(昭和8)年5月 【西】鉄道省が修善寺〜月ヶ瀬温泉乗り入れ(戦時中に中断)
1934(昭和9)年4月 【西】吉奈〜天金(現在廃止)〜土肥(旧・棚場トンネルルート)延長開通
1943(昭和18)年11月 【富】井中汽船株式会社・井中温泉自動車株式会社・富井乗合自動車を合併、富井鉄道汽船株式会社に社名変更
1947(昭和22)年5月 【富】西伊豆鉄道株式会社と合併、富井鉄道株式会社に社名変更
1949(昭和24)年4月 国鉄が修善寺〜月ヶ瀬温泉乗り入れ再開
1950(昭和25)年10月 東京〜月ヶ瀬温泉直通準急「あまぎ」運行開始
伊井〜奥入新線に切換え
1953(昭和28)年3月 準急「あまぎ」を「伊豆」に改称
1955(昭和30)年4月 富井鳥類研究センター(現・とみいバードランド)開業
1959(昭和34)年12月 学校前駅を富井高校前駅に改称
土肥〜伊井開通

土肥〜伊井航路廃止
1960(昭和35)年1月 修善寺〜伊井間の架線電圧を600Vから1500Vに昇圧
1961(昭和36)年10月 小立野駅を役場前駅に改称
1962(昭和37)年6月 矢津(現・吉崎山口)〜木日港開通
1964(昭和39)年4月 吉崎山ロープウェイ(伊豆吉崎山索道線)開業
矢津駅を吉崎山口駅に改称

1964(昭和39)年11月 準急「伊豆」を急行に昇格
1965(昭和40)年10月 東駿製紙株式会社より清水〜木日航路譲受、旅客扱い開始及び航路延長により清水〜木日〜土肥航路就航
大垣〜月ヶ瀬温泉直通臨時準急「するが」運行開始
1966(昭和41)年3月 準急「するが」を急行に昇格、名称を「中伊豆」に変更
1967(昭和42)年3月 東駿製紙株式会社より田子の浦〜木日航路譲受、旅客扱い開始
1968(昭和43)年10月 平(現・いわき)〜月ヶ瀬温泉直通急行「常磐伊豆」運行開始
急行「中伊豆」を臨時列車とし、名称を「しゅぜんじ」に変更、運転区間を静岡〜修善寺に縮小
1969(昭和44)年4月 三島〜長野田港直通気動車快速「とみい」運行開始
1971(昭和46)年2月 東駿海運株式会社に貨物海運事業部門を一部譲渡
1972(昭和47)年11月 急行「常磐伊豆」廃止
1973(昭和48)年4月 急行「しゅぜんじ」の運転区間を浜松〜月ヶ瀬温泉に延長、名称を「駿豆」に変更
1974(昭和49)年6月 株式会社西伊豆ホテルリゾート開発(現・株式会社とみてつホテル)を設立
1975(昭和50)年9月 清水〜木日〜土肥航路廃止
1976(昭和51)年3月 快速「とみい」を急行に昇格
1981(昭和56)年10月 急行「伊豆」を特急に昇格、名称を「踊り子」に変更
1982(昭和57)年3月 貨物海運事業部門から完全撤退
1983(昭和58)年3月 富井浜水族館開業
1985(昭和60)年4月 海運部門を新富士フェリー株式会社に譲渡
1985(昭和60)年11月 修善寺〜月ヶ瀬温泉複線化
1986(昭和61)年10月 伊井〜松田港電化
1987(昭和62)年3月 芦〜長野田開通(芦〜長野田港廃止)

奥入〜長野田電化
急行「とみい」を特急に昇格、名称を「まぶゆ」に変更
1988(昭和63)年3月 東駿鉄道(現・駿遠鉄道)と富士〜出口相互直通運転開始(後に長野田まで延長)
1989(平成元)年9月 吉崎山口〜木日港電化
1990(平成2)年3月 土肥大橋架け替え及び月ヶ瀬温泉〜土肥新線(船原ルート)開通、旧線(棚場トンネルルート)廃止
吉奈駅・持越駅・山川駅・天金駅廃止、吉奈温泉駅(吉奈駅移転)・船原駅(新設)・土肥山川駅(山川駅移転)・東土肥駅(天金駅移転)開業

初の高速バス、修善寺名古屋線「伊豆セントラル号」運行開始(〜1996年)
1995(平成7)年10月 急行「駿豆」を特急に昇格、名称を「(ワイドビュー)するが」に変更
2001(平成13)年3月 本立野〜大平新線に切換え
2004(平成16)年4月 役場前駅を伊豆市駅に改称
2006(平成18)年4月 三国バス株式会社より神奈川東(現・横浜)・神奈川西(現・厚木)・多摩・名古屋の各自動車営業所を譲受
2007(平成19)年4月 駿鉄いずバス株式会社を合併
※表中【西】は西伊豆鉄道関連、【富】は(初代)富井鉄道・富井鉄道汽船関連